翻訳と辞書
Words near each other
・ ミドルセックス州
・ ミドルセックス郡
・ ミドルセックス郡 (オンタリオ州)
・ ミドルセックス郡 (コネチカット州)
・ ミドルセックス郡 (ジャマイカ)
・ ミドルセックス郡 (ニュージャージー州)
・ ミドルセックス郡 (バージニア州)
・ ミドルセックス郡 (マサチューセッツ州)
・ ミドルタウン
・ ミドルタウン (カリフォルニア)
ミドルタウン (コネチカット州)
・ ミドルタウン (デラウェア州)
・ ミドルタウン (ニュージャージー州)
・ ミドルタウン (ニューヨーク州オレンジ郡)
・ ミドルタウン (ペンシルベニア州バックス郡)
・ ミドルタウン (ロードアイランド州)
・ ミドルタウン・マンスフィールズ
・ ミドルタウン(コネチカット州)
・ ミドルティーン
・ ミドルテネシー州立大学


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ミドルタウン (コネチカット州) : ミニ英和和英辞書
ミドルタウン (コネチカット州)[す, しゅう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [す, しゅう]
 (n) sandbank

ミドルタウン (コネチカット州) : ウィキペディア日本語版
ミドルタウン (コネチカット州)[す, しゅう]

ミドルタウン()は、 アメリカ合衆国コネチカット州ミドルセックス郡の都市であり、コネチカット川に沿い、州内中央部にあり、州都ハートフォードからは南に16マイル (26 km) の位置にある。1650年、当初のインディアンによる名前であるマッタベセックを使って町として編入された。1653年に現在の名前に変わった。1784年、中央部の開拓地が町とは異なる市として編入された。1923年、ミドルタウン市は町と合併し、大変広い領域を持つ都市になった。当初から繁華な港町であり、その後製造業の中心となり、現在は住宅都市かつウェズリアン大学のある大学町である。1785年にミドルセックス郡が設立されたときから、1960年に郡庁を廃止するまで、ミドルタウン市は郡庁所在地だった。1910年の人口は11,851人であり、1940年に26,495人、2010年の国勢調査では人口47,648人となっている〔American FactFinder . U.S. Census Bureau. 2011年2月4日. 2011年4月5日閲覧〕。
== 歴史 ==

ミドルタウン市が現在あるコネチカット川左岸の土地は、マッタベセット族インディアン(別名マッタベセックあるいはマッタベセク)の本拠であり、彼等が住んだ地域は部族名を採って名付けられていた。この地域に最初のヨーロッパ人開拓者が到着したとき、マッタベセット族はコネチカット川流域にいるインディアン集団の一部であり、ソーヒーグという一人の酋長の下に纏まっていた〔 Warner, Elizabeth. ''A Pictoral History of Middletown.'' Greater Middletown Preservation Trust. Donning Publishers. Norfolk, Virginia, 1990.〕〔Middlesex County Historical Society and Wesleyan University Library's Special Collections Archives. ''The History of Middletown'' "Part I: 1650-1800." Prepared by Jeff Harmon. Cited from the City of Middletown website Jan. 1, 2007.〕。

1646年に「マッタベセット」の植民開拓計画がイギリスの高等法院によって書き上げられた。1650年にはコネチカット植民地の近くの所から最初のヨーロッパ人が到着した。この時のピューリタンによる初期開拓者の生活は容易ではなかった。ニューイングランドの岩の多い大地で土地を切り開き、家を建て、農業を行うことは過酷な労働を強いる試練だった。ピューリタンの間の法律も厳格なことが多かった。コネチカット植民地における死罪に該当する犯罪には「魔法使い、神への冒とく、親への呪いあるいは暴力、および子供の手に負えない頑固さが入っていた〔〔。

17世紀後半にイギリス人の同盟部族であり、マッタベセットなど土地の部族には敵であったピクォート族モヘガン・バンドがミドルタウン地域に入ってきた。ピクォート族と地元のインディアンとの間に紛争が続いた。マッタベセット族などはモヘガンのことを「人の破壊者」と呼んだ。ソーヒーグは植民地人が仲裁してくれることを期待したが、そうはならなかった。天然痘もマッタベセット族に影響し、部族としての抵抗力や団結力を著しく弱めた。記録に拠れば、時間の経過と共にソーヒーグは土地の植民地人にマッタベセット族の資産の大半を売ってしまうことを「強いられた。」1676年までにピューリタンはマッタベセット族の領土の内300エーカー (1.2 km2) を除いて所有するようになった〔。17世紀のニューイングランドではインディアンと植民地人の間の悲劇的交流についてはどこも同じような経過を辿った〔Cronin, William. Changes in the Land: Indians, Colonists, and the Ecology of New England. 2003, Hill and Wang, New York. 〕。
1700年代、ミドルタウンはコネチカットの中でも最大で最も繁栄する開拓地になった。アメリカ独立戦争のときまでに、ミドルタウンはその重要さでボストンニューヨークと並ぶ繁盛港であり、市民の3分の1は商業や船舶運航業に関わっていた。ミドルタウンの初期経済では奴隷が一つの部分を占めていた。1661年アフリカ人奴隷がバルバドス諸島から連れてこられた。1756年までに、ヨーロッパ人5,446人に対して奴隷218人と、コネチカット植民地の中で3番目に多い奴隷人口を擁するようになった〔。

ミドルタウンの貿易業者はコネチカット川河口のセイブルック砂州を除去することを求め、また後には1785年のミドルセックス郡設立を推進した。「ミドルセックス」という名前は、ロンドンイングランドミドルセックス州にある長い川港の上流にあるように、ミドルタウン市を長い川港の上流にあるようにする意図があったので選ばれた。このときの推進者達がコネチカットの西部にある全ての開拓地を結び、もう1つの長い港を創設する意図もあって、ミドルセックス・ターンパイク(現在の州道154号線)を建設した。
1800年代初期に、アメリカとイギリスの関係に歪みが来て、その結果貿易制限に至り、米英戦争の発端となったときに、ミドルタウンの港の衰退が始まった。この港が快復することは無く、むしろ1814年にミドルタウン出身の海軍准将トマス・マクドナがアメリカ軍を率いてシャンプレーン湖の戦いで勝利し、イギリス軍によるニューヨーク侵略の望みを終わらせたことで際だつことになった。

この期間、ミドルタウン市は武器製造の主要な中継点になった。この地域の多くの銃製造者が米英戦争の間に、アメリカ合衆国政府に拳銃の大半を供給した。しかしその後、この事業の中心はマサチューセッツ州スプリングフィールド、コネチカット州ハートフォードおよびニューヘイブンに移った。
1831年にはウェズリアン大学が創設され、アメリカ合衆国でも指導的な教養教育機関の一つになった。当時メソジストのウェスリアンが同じ場所にあった以前の教育機関を作り替えた。アメリカ文学・科学・軍事アカデミーはバーモント州ノーウィックに移され、ノーウィック大学になった。当初のキャンパスにあった2つの主要校舎は、市内に学術的機関を誘致する意図を持ったミドルタウン市の住民によって建設された。

19世紀半ばにはミドルタウン市経済の根幹が貿易から製造業に置き換わった。しかし工業の成長は、鉄道がハートフォードからニューヘイブンまで敷かれたときに、ミドルタウンを通らないと決断されたために限界のあるものになった。ミドルタウンのホワイトロックとポートランド近郷のボドキンロックを結ぶ鉄道吊り橋を建設する大きな計画があったが、実行可能な案とは判断されなかった。
それでもミドルタウンは南北戦争で1つの役割を果たした。例えばミドルタウン出身のジョセフ・K・マンスフィールド将軍が1862年のアンティータムの戦い北軍の将軍として参戦し戦死した。皮肉なことにアンティータムでの他の損失にはミドルタウンにある私立士官学校で教育を受けていたジョージ・テイラー准将も入っていた。また南北戦争の間に人気のあった行進曲『ジョージア行進曲』はミドルタウン住民のヘンリ・クレイ・ワークが制作した。ミドルタウン市は奴隷制度廃止運動でも活発な動きがあり、地下鉄道 (秘密結社)の中継点になった。

19世紀後半、市経済の根幹は製造業であり、特に船舶用部品(ウィルコックス・クリッテンデン・アンド・カンパニー)やタイプライター部品(ロイヤル・タイプライター)のような精巧に加工された金属部品が強かった。また幾つかの機械部品と型の製造者もあった。タイア製造会社のグッドイヤーの主工場もあった。さらに自動車製造のパイオニアであるアイゼンフス・ホースレス・ビーイクル・カンパニーもあった〔Clymer, Floyd. ''Treasury of Early American Automobiles, 1877-1925'' (New York: Bonanza Books, 1950), p.51.〕。
ミドルタウンはプロ野球ナショナル・アソシエーションミドルタウン・マンスフィールズというメジャーリーグのチームが一時期本拠地にしていた。
19世紀遅くから20世紀初め、かつてアングロ・サクソン系民族が支配的だったこの市は人口構成に変化があった。最初にアイルランド人、続いて多数のイタリア人、その多くはシチリア島メリッリの町からの移民がミドルタウンの工場や農場で働くために到着した。ポーランド人ドイツ人も続き、1910年には人口が21,000人近くまで脹れ上がった。一方、アフリカ系アメリカ人の人口はわずか53人にまで減少した。これは雇用主が白人移民を雇う選択をしたためだった。20世紀後半は多くのアフリカ系アメリカ人がこの地域に入り、さらにはヒスパニック系移民の流入が続いた。ウェズリアン大学の教授2人の努力で1980年代初期にはカンボジア避難民の小集団が入り、その後繁栄するカンボジア地域社会の基盤になった。ミドルタウンにある小さなチベット人の社会も同様な経過だった。またコネチカット州では初めてのヒンズー教寺院が建設され、ヒンズー教徒も惹き付けることになった。

民族の混合は現在ミドルタウン市内にあるレストランの多様さという結果にもなり、急速に市の最も評判になった側面の一つになっている。
自然災害とうち続く人々および企業の流入で20世紀前半のミドルタウンは影響された。1927年と1936年には洪水に見舞われ、1938年にはニューイングランド大ハリケーンに襲われた。これらの災害にも拘わらず、1938年にはコネチカット川に架かるアリゴニ橋が完工し、ミドルタウンとポートランドから東を繋ぎ、古い橋と役目を交代した。

1950年代、自動車に対する人気が高まり、政府当局はミドルタウン市内をコネチカット川から事実上分離するような高規格道路の建設を承認した。高規格道路の建設はその当初の自然の「存在理由」から1700年代からある多くの建物を含め歴史ある地区を破壊し、住民は古い地区の外にある新しい住宅地区から通勤するようになった。製造業と就職機会が無くなり、当時のアメリカ合衆国北東部の多くの都市と同様にミドルタウンも衰退していき、1990年代まで反転することはなかった。

この時代「都心再開発」の名のもとに多くの(老朽化はしていたが)威厳のある建物が壊され、その後は駐車場に変わるか空き地になった。犯罪が増加した。1960年代、プラット・アンド・ホイットニー航空機がミドルタウンのマロマス地区に大規模な工場を開設した。当時、土地開発者はオークグラブ・デイリーの大半を含め市内に残っていた農場を買収し、地元の労働者や周辺都市への通勤者のための郊外開発を始めた。

1970年代、オッドフェローズ・プレイハウス設立された。この劇場は毎年州内から多数の若者を引き寄せ演劇などの公演を行った。この劇場はコネチカット州でも数少ない若者の劇場の一つである。

1990年代、ミドルタウン市とミドルセックス商工会議所およびウェズリアン大学の共同事業で、ミドルタウンのメインストリートに大きな投資が行われた。その動きでミドルタウン中心街が蘇った。犯罪は減少し、新しいレストランや店舗がオープンした。
1827年に建設されたサミュエル・ワズワース・ラッセルの家屋が2001年に国定歴史史跡に指定された。1840年に建設されハイ・ストリートにあるアルソップの家屋も登録された。どちらの建物もウェズリアン大学キャンパスの一部にある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ミドルタウン (コネチカット州)」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.